ちょうど必要に駆られて、Michael Tye(1995) Ten Problems of Consciousnessを読んでいます。せっかく読書メモ(というより内容まとめ)をつけているので、ここに載せとこうと思います。
(文章をまとめるのが下手すぎてほぼ訳出みたいになっているところもありますが、)訳ではないのでその点ご留意ください。自分用にまとめているので文体・作法とかも特にキレイにしてません。不正確な解釈も多分あるので、鵜吞みにせず原著を確認してください(もし善意のある方がいらっしゃればご指摘いただけますと私が助かります)。本のamazonリンクを最下部に貼っておきます。
一応段落ごとにまとめてます。今回は第1章。
第1章 The Ten Problems(10個の問題)
1.私たちがいろんな感覚や知覚経験をするとき、そこには「そうであるようななにか」とでも呼べる現象的なものがあるように思える。その質的な部分が変われば、経験それ自体も変化するし、そうした部分が完全になくなれば、経験もなくなる。Tyeはここで、現象的意識は心的状態が現象的な意識的状態として存在するときにのみ存在すること、そして心的状態は直接の主観的な「感じ」の状態、つまり特有の経験の質があるときにのみ現象的な意識的状態となる、ということを言おうとする。
2.哲学者はしばしば哲学的ゾンビ(抽象的思考とか発話とかはできるけど現象的・感覚的特徴を内的状態に持たないやつ)の思考可能性を主張するし、それは一見尤もらしく思える。けど、現実世界に根差す我々にとって、本書でTyeが提示する例は、議論を始める際の理論以前の出発点として十分だ、とTyeは言う。本書における問題は全て現象的意識の何らかの側面に関わっている。
1-1 Phenomenal Consciousness Introduced(現象的意識の導入)
3.どういう状態が現象的な意識状態になるのか。哲学者ごとに違うが、Tyeは大まかに以下の4つを挙げる。(1)緑を見たり、トランペットのでかい音を聞くといった知覚経験。(2)痛みやかゆみを感じたりする身体感覚。Tyeはこれに加えてオーガズムや全力疾走してる時の感覚も挙げている。(3)喜びとか欲望とかの、印象とか感情。(4)うれしいとか落ち着いてるとか、そういった気分を感じること。
4.感情や経験ではないような心的状態も、現象的な意識状態に含めるべきだろうか?例えばアイスを食べたいという願望には、「そう考える私であるような何か」はないのか?もしそうなら、その状態は現象的な意識状態じゃないのか?あるいは「俺はイケてるやつだ」という信念なら?もしくは「9月2日は私が初めて恋に落ちた日だ」という記憶はどうだろうか?そこには現象的な「味わい」のようなものはないのか?前者は自尊心やエゴといった現象的感覚、後者はなつかしさなどの感じはないのか?
5.Tyeは上の見方に反して、上記の状態には現象的特徴の担い手としての感覚やイメージなどが伴い、それゆえにそれらの状態には現象的もしくは直接的に経験されるような感覚的質があると主張することは別にもっともらしくないことではないと主張する。特定の場面でそれらの状態に偶然関連付けられているような感覚や経験を取り去れば、もはやそこに現象的意識はない、と言うのだ。
6.上の見解によれば、記憶や願望には、それ自体に「そうであるような何か」があるわけじゃない。しかし、例えば願望の場合には、それが本質的には現象的な意識状態ではなくても、強い願望のようなものを持つときには、やはりわれわれはなにかそれに引っ張られるような感覚を経験することがある。また、さまざまな(感覚)様相において、それに付随する(心的な)イメージがある場合もあるだろう。
7.特定の対象に向けられた強い感情的反応については何が言えるだろうか。例えば車が壊されたことへの強い怒りには直接的な感覚の側面や内的な現象的特徴があるのだろうか?これに対する自然な回答は、このようなケースに関与する状態は混在していて、感覚と信念または思考の両方を構成要素として持っている、というものだろうとTyeは言う。だから先の例は車が壊されたと信じること、そしてそれによって怒りの感情が引き起こされることにほかならない。とにかく、ここでのTyeの提案は、上記のケースではその構成要素の感覚を経験する際の「そうであるような何か」があるが、信念や思考それ自体には本質的な現象的側面は備わってないというものだ。
8.一部の哲学者は、これまでTyeが述べたような意味で「意識」という語を使わない。彼らは、意識とは主体の注意を心の中に向け、その心の中で何が起こっているのかを考えることだと主張する。ジョン・ロックの『人間知性論』の中でも、「意識とは、ある人の心の中をなにが通るかについての知覚だ」と言われている。ただロックも経験や感覚が現実のものであることを否定しない。痛みとか色の経験を想像すればわかるように、Tyeが特徴づけた現象的意識は現実のものである。
9.動物は現象的な意識状態を持つだろうか?これは確実にそうだと言える。犬はレム睡眠時にうなったりクンクン鳴いたりするが、これは間違いなくわれわれが夢を見ている間にする経験のようなものを犬もしているということだろう。これよりも尤もらしくないのは、あらゆる(現象的意識の)ケースにおいて高階の意識があり、従って思考は他の心的状態に向けられているというアイディアだろう。動物はそのような高階意識を欠いているが、しかし現象的意識を持っているように思える。犬が好きな骨を噛んでいるときに、犬にとってそうであるようななにかがないと主張することはばかげているように思える。
10.高階の意識がなくても現象的意識が存在できる例をもう一つ。嗅覚を完全に失ったある人は、失う前には意識していなかったような―が、しかし意識を払わない無意識的なバックグラウンドの豊かさを保ち、その人の人生の基礎を形成していた―香りがある世界を思い出したいという強い願望を持っていた。
11.これは高階の意識がいらないことの証左だろう。私たちがそれを意識するか否か、または気づくか否かに関わらず、嗅覚経験は絶えずそこにある。何かを嗅ぐとはどのようなことかという何かが、つまり不運にも嗅覚を完全に失ってしまったなら、その不在が私たちの注意をひくような何かが、そこにはあるのだ。
12.これは直観的に他の感覚についてもいえると思われる。何かに触れていたり何かが耳に入ってきたりするとき、それらは私の注意が他のものに向いていたとしてもそこにある。少なくとも通常はそう考えられている。
13.現象的意識が現実のものであり高階の意識からは区別されるというテーゼは、あるものが現象的に見られたり感じられたりする仕方を、受容体細胞が成熟したときもしくはそのすぐあとに固定することを受け入れることになるのではないか、という理由でしばしば批判される。だがこれは間違いであるとTyeは言う。主観的・現象的な特徴を持つ何かしらの心的状態を経験するときにそうであるような何かがあることに同意する限り、経験の可変性に関する見解がどうであれ、そういった心的状態が現象的意識を持つことを認めることになる。現象的意識があると主張することと、現象的特徴が時に高次の認知プロセスに影響を受けることを主張することの間には、矛盾はない。
14.さて、いよいよ意識に関する10個の問いを見る時が来た。一部の哲学者はその難解さに絶望した。Tyeはそのような反応は大げさだと考えているけれども、しかしこの問題が本当に難しいものであることは否定しがたいようだ。
1-2 The Problem of Ownership(所有権の問題)
15.現象的意識とは実のところどういうものだろう?それは典型的な物理的現象のように、客観的で自然的世界観の中に位置づけられるのだろうか。多くの哲学者はそう考えない。Tyeがここで挙げる最初の問題は、現象的な意識状態が物理的なものだと考えたい哲学者は必ず対峙すべき問いである。もし痛みや残像などといった経験や感覚の心的対象が誰かのものであり、私秘性を持つものなら、これらがいかにして物理的でありうるのか?それらの対象がそれ自体で物理的でない限り、その対象を含む現象的な状態もまた物理的ではありえないだろう。
16.具体例を考えてみよう。あなたは暖かい日の下で目を閉じて横たわっているとき、突然野良のピットブルから左足にかみつかれた。この明らかに不幸な出来事にも、そこにはそうであるような何かがある。
17.これはあなたの状況を見たり考えたりしている第三者の存在に関係なく、あなたに関する客観的な事実である。だが、あなたのその痛みや感覚は必然的にあなただけのものである(あなたに対して私秘的=あなたのうちに閉じられている)。誰もあなたが今感じているところのその痛みを感じることはできない。もちろん、誰かがあなたが感じているのと同じ類の痛みを感じることはできるだろうが、あなたが感じているまさにその痛みを感じることはできない。この痛みに関する真なる事実は、痛み一般に関する真なる事実であるどころか、経験の心的対象に関する真なる事実である。経験に関するいかなる点も共有されえない。あなたの痛みは必然的にあなたのものである。
18.この問題は、物理的なものは通常このような形で所有されてはいないように思えるという点にその一部分を負っている。そのピットブルも私のネクタイのようにあなたが所有することはできるだろうが、痛みやかゆみは常に何らかの生物の痛みやかゆみである。同様に、あらゆる見えは常に何らかの生物に対する見えである。どちらの経験の心的対象もその所有者を持っている。この点において、痛みはピットブルや足とは違う。ピットブルや足は何ものにも所有されずに存在することができるが、痛みは所有者がいなければ存在できない。
19.経験や感覚が完全に物理的だと主張したい哲学者の課題は、もし痛みやその他の経験の心的対象が単に物理的なものに過ぎないのなら、それらがいかにして以上の特徴を持つことができるのかを説明することである。
1-3 The Problem of Perspectival Subjectivity(視点的な主観性の問題)
20.第1の問題は物理主義者において問題になる現象的経験の問題である。この問題は様々に違った形で描き出すことができる。先のピットブルの例をもう一度。あなたがさらされた特定の種類の経験や感覚を完全に理解するには、そのような類の経験や感覚を受ける(=経験する)とはどのようなことかを知ることが必要だと考えることは、もっともらしく思える。そしてそれを知ることは、その経験の主体が、経験における特定の立場や視点に立つことを必要とする。ピットブルにかまれる経験が如何なるものかを知るためには、犬にかまれた際の現象学的に似た経験を十分に経験したことがあるか、主体が過去に経験した別の痛みの経験に基づいて等の経験を想像できる必要がある。
21.これは痛みを感じる能力を持たずに生まれ、注意深くコントロールされた環境で生きる子どもが、あなたの先の経験があなたにとってどのようなものかを知ることができることはないことの理由だ。そのような子どもはその経験に関連した視点を自身に取り入れることができない。その視点が欠けていては、どんなにあなたの脳の発火パターンについての情報などを提供されようとも、その子どもはその痛みの感覚がいかなるものかを完全に理解することはできない。
22.したがって現象的な意識状態は、それの完全な理解のためには特定の経験的視点を要求するという点で主観的である。このように、それらは視点的だ。だが物理的状態はそうではない。稲妻が何であるかを理解するのに特定の経験的視点に立つ必要はない。盲目や聴覚障がいの人でも稲妻とは何かを完全に理解できる。物理的なものというのは視点的に主観的ではない。それらは客観的である。
23.われわれは感覚や経験の能力がないアンドロイドが現象的意識を理解する資源を欠いているように思えるのはなぜかについてにんしきすることができる。そのアンドロイドは現象的意識を全く欠いているので、現象的に意識的であるとはどのようなことかを知ることができないだろう。そしてこれを知ることができないので、いかなる経験的視点を占めることもできない。だからアンドロイドは現象的意識の性質を理解できないし、「現象的意識」の意味も適切に把握することができない。
24.この問題はメアリーの思考実験によっても描き出すことができる。
25.また、科学者がある異星人の物理的状態についての知識を余すところなく持っているところを考えてみよう。その時科学者は、異星人の感覚や経験が我々のそれと同じだろうがそうでなかろうが、異星人であるとはどんな感じだろうと考えることができる。が、そう考えることができるなら、科学者たちはその客観的で科学的な手法によってすべてを知ることができる立場にない。やはり、異星人であるとはどのようなことかという、主観的で、すでに手にすることができる客観的な事実についての情報を含まないような何かが、私たちに知られずに残っているだろう。
1-4 The Problem of Mechanism(メカニズムの問題)
26.神経の状態それ自体は主観的な視点を持たないが、現象的な意識状態は持つ。私たちの脳を構成する物理的なものの変化が感覚や経験、「テクニカラー現象学」を作り出すようである。果たして、いかにして無視点的なものから有視点的なものが作り出されるのか?主観的な視点を持つ特性がある状態を生み出す原因としての脳とは何なのか?この問いは無視点的なものから有視点的なものが生成されるときの基礎にあるメカニズムを詳述し、説明ギャップを埋めるよう要求する。ハクスリーもこのギャップに言及している。
27.説明ギャップについては思考実験をしてより明確にしよう。あなたの脳の物理的な変化を装着者が見ることができるようなヘッドギアデバイスを考えよう。それをあなたが装着すれば、目の前にあなたの脳の発火パターンが見て取れる。あなたがくすぐられれば、それに対応した体性感覚野のニューロンが発火する。くすぐられるのが止められたなら、それは休止状態になる。こういった電気的な活動が私たちの主観的なくすぐったさの感覚を生み出しているというのは驚くべきことではないだろうか?いったいどのように生み出しているのか?そしてなぜ他の仕方ではなくこの仕方でくすぐったさが感じられるのだろうか?
28.メカニズムの必要性は日常の科学の例からも認めることができる。例えば水の流動性の例は、いかにして高次の特性やプロセスが低次のそれから生み出されているかを説明するメカニズムがある。
29.流動性の場合、それが簡単に流れるという性質であることや、H2O分子がお互いを自由にすり抜けるということを言えれば、分子の特性から流動性がいかに生み出されるかを理解することに困難はない。
30.これは薄いガラスにおける脆性も同様である。
31.消化についてもそうだ。
32.上記の例は、低次のミクロ物理的なレベルの現在の状態による高次の状態やプロセスなどの生成は、高次のレベルの生成の説明となるようなメカニズムに根差していることを強く示唆している。現象的意識が自然的な現象なら、つまり物理的世界観の一部分なら、主観と客観の間の説明上のギャップをつなぐようなメカニズムがあるべきだ。だがこのメカニズムとは何だろうか?それに対してわれわれは何のアイディアも持っていないし、どんな科学的な発見が私たちを助けられるのかを理解するのも容易ではない。いかなる客観的な科学のメカニズムも説明ギャップを埋めることはできない。どれだけ物理的、客観的な知識を得ても、われわれはなぜ物理的なものの変化がその主観的な感覚を生み出すのかについてのさらなる説明を大いに必要とするだろう。
1-5 The Problem of Phenomenal Causation(現象的因果の問題)
33.現象的意識はわれわれの行動(ふるまい)に影響を与える。拷問の犠牲者が叫ぶのは、その人が感じているひどい痛みの感覚の質によってそうするのだ。もしこうしたことが否定できないなら、われわれの経験の主観的で現象的な質というのは行動に関しての影響を持っている。
34.だが上の例において、今はまだその詳細を知らずとも、その公然で公的な行動に対する完全に物理的な説明があるということも否定しがたいだろう。いかにして痛みの現象的特徴がその人の行動に何かしらの変化を生み出すことができるのだろうか?
1-6 The Problem of Super Blindsight(スーパー盲視の問題)
35.盲視は最近の心理学で幅広く研究されてきた。盲視患者は膝状体後部に障がいがあるため、視覚範囲の中に見えない範囲や盲点が存在する。と同時に、盲視患者はその見えない範囲で起こった内容(モノが動いたり任意の視覚刺激を与えられるなど)に関して偶然以上の正確さで供述することができる。
36.彼らは特定の領域の経験的もしくは現象的な意識状態を欠いていながらも、通常の視覚を持つ人々と同じことができる。しかし、盲視の人は見えない領域内の内容に関して自発的に報告することができない。特定の選択を迫られて初めて答えることができる。しかも、彼らは自分が言った内容を信じていない。
37.自分の意志によって応答し、推測するよう方向づけられなくても見えない領域内のことについて推測し、しかもその応答を自分で正しいと信じるようになった盲視の人を想像してみよう。こうした人は通常の視覚を持つ人々と全く同様に刺激に対して応答することができる。いわゆるスーパー盲視である。
38.Tyeが知る限りそんな人はいないが、不可能ではない。ここから浮かび上がる問いは以下のようなものだ。つまり、スーパー盲視の人が眼前に現れていると信じているものとわれわれが経験するものの違いは正確に言って何なのか?何を経験しているかというのは、何を信じているかよりもその内容に豊かな詳細を持っているという違いか?より一般的に、このスーパー盲視の事例を現象的意識の哲学的理論の中でどう扱えばよいのだろうか?
1-7 The Problem of Duplicates(複製の問題)
39.ハリウッドのゾンビをわれわれから見分けるのは簡単だ。ゾンビだって別に現象的意識を完全に欠いている必要はないし。だが哲学的ゾンビはそうはいかない。
40.哲学的ゾンビは感覚を持つ生物を分子レベルで複製しているが、現象的意識を持たないという点のみオリジナルと違う複製だ。そのゾンビの感覚器官は、我々の感覚器官がするのと全く同様に情報を運ぶけど、そこに内的な現象学はない。そのゾンビは私の正確な物理的複製なので、ゾンビの内的な心理学的状態は機能的に同型だ。だからどのような刺激であれ、ゾンビは私と全く同じ物理的プロセスを踏むし、それによって全く同じ行動的反応を示す。
41.非現象的な心理学的状態が機能的状態であると仮定すれば、私のゾンビは同じ信念、思考、そして欲求を持っている。ただ経験という点に関してのみ違う。ゾンビはそれがどのようなことかということを持っていない。
42.この仮説は、決してゾンビの存在が実際の自然法則と一致し、実際に可能であるといいたいわけではない。むしろこの仮説は筋が通っていて、要するに思考可能であり、したがって論理的もしくは形而上学的にも可能であるといいたいのだ。
43.哲学的ゾンビは現象的意識についての物理主義的見解に脅威を及ぼす。第一に、ゾンビが可能なら、現象的状態は体内の客観的、物理的状態と同一ではない。物理的状態Pが現象的状態Sなしで可能だ。だがSはSなしでは起こりえない。ライプニッツの法則によれば、SはPと同一ではない。
44.次に、もしミクロ物理的に同一の状態にあり、同一の環境に置かれている人が、いかなる現象的経験も欠くことができるなら、経験や感覚に関する事実は客観的なミクロ物理的事実からは決定されないことになる。これは、物理主義者にとっては、例え現象的な意識状態が客観的な状態と厳密に同一ではないとしぶしぶ認めたとしても、譲ることのできない点である。物理主義者であるならば少なくともミクロ物理的状態がすべての事実を決めると信じなければならない。
45.この問題はミクロ物理学的な複製の問題だ。
46.別の例も哲学者の注目をひく。10億人の中国人に相互通信可能な無線機を持たせる。中国人は指示通りに動く。中国人は個々のニューロンのように働き、無線機同士の通信はシナプスのように働く。中国人は全体として人間の脳の因果的機構を複製する。このシステムが経験したり感じたりするかどうかについては、否定するほうがもっともらしいが、もしそれが可能なら、現象的経験は機能的に分析不可能であり機能的に決定されないものということになる。機能的機構は現象的意識の存在のために必要なものではない。では何が必要なのか?
47.重要な問いは、それが実際に経験するか否かではなく、経験しないかもしれないということである。習慣的にはある石Rは何の干渉も受けなければ、支配的な自然法則に従って地球に向かって落下するだろうが、論理的には別の法則に従ってRがそうしないかもしれないということは可能である。この「かもしれない」は形而上学的もしくは論理的なものである。
48.この例は可能世界という観点から述べることもできる。この世界と全く同じ法則が働く可能世界ではRが落ちることが習慣的に可能だ。だがこの世界と違う法則が働く可能世界では、Rが落ちないことが習慣的には不可能であるのに形而上学的には可能である。
49.これらの点は所謂中国身体システムの議論の中で頻繁にあいまいになる。ポール・チャーチランドは、機能主義にとって何が問題になるかを提示するうえで、「このシステムは、機能主義によれば心的状態の主体となるだろう。しかし、そのシステムが担っている機能的役割(痛みとか喜びとか)というような複雑な状態は、私たちのような本来的に備わっているクオリアを持たないだろう。そして本物の心的状態であることに失敗するだろう。」みたいなことを言っている。
50.真の問題は、このシステムが感覚や経験を持つことに失敗するかどうかではなく、むしろそうした状態をそのシステムが欠くことが形而上学的に不可能か否かということである。結局のところ、私たちは上のようなシステムを想定できるが、もし想定できるなら、そのシステムは形而上学的に可能である。そしてこのことは、現象的意識は機能的機構と同一ではないし、機能的機構によって形而上学的に決定されないことを必然的に伴う。これは機能的な複製の問題である。
1-8 The Problem of the Inverted Spectrum(逆転スペクトルの問題)
51.典型的な逆転スペクトルに関する議論は以下のように進む。トムは他の人と違う変な視覚システムを持っている。彼が赤い対象を見るとき、彼にとってそれがどのようなことかは、私たちにとって緑色の対象を見るとはどのようなことかと同じである。これはトムも他の人も気づかない奇妙な特性である。読むは通常の仕方で色の名前を学び、それを正しく使うことができるし、彼の非言語的態度は全く通常通りである。
52.彼の経験の機能はわれわれと全く同じにもかかわらず、現象的、主観的には経験は我々のそれとは違うものになる。これは機能的に現象的意識を理解したい哲学者には受け入れがたいものだが、ではこの論法のどこが間違っているのだろうか?これが逆転スペクトルの問題である。
53.この問題を明確にするために、あなたが外科医から視覚システム内のニューロンの配列を変化させる手術を受けたとしよう。あなたが手術から目覚めたとき、世界は全く違う仕方であなたの目に映る。そしてその変化は、あなたの行動にも反映される。逆転が起こったことがわかる明確な証拠がそこにはあるのだ。
54.生まれた直後にこの手術を受けたと想像してみよう。あなたは色に関する語をその異常な見えと共に学ぶ。それゆえその後の使用は他の人々と何ら変わらず、同じ状況で正確に使用する。これが思考可能だと思うなら、実際にこのような状況があることが難しくても、形而上学的には可能である。したがって、機能主義は現象的意識にとっての良い立場とはなりえない。
55.この問題は、手術後にそれに適応して以前の見え方を忘れた個人に関するものとして提示されることもある。この場合、適応後の人はそれ以前の人と機能的には同一の視覚経験の主体であるが、主観的には異なる経験を持っている。
56.地球とは違う逆転地球を想定することもできる。あらゆるものの色が違うゆえに、逆転地球に住む人々は逆転された機能的役割によって心理学的な経験をし、その内容というのは逆転された表象内容である。しかし、その人々は我々と同じく「空は青い」というのだ。あらゆる点で変化が一貫しつつ、その他の点ではなお逆転地球は地球と非常に似ている。
57.ある夜にあなたは寝ていて、マッドサイエンティストがあなたの目に色を変化させるレンズを入れて、逆転地球にいるあなたのドッペルゲンガーの代わりにあなたがそこに送られたとしよう。あなたはレンズのせいで、自分が逆転地球にいることに気づかない。だが、やがて時間がたちその逆転地球の言葉と環境に十分に適応したとき、あなたの表象内容はそこにいるほかの人々と同じになるだろう。あなたは空が黄色いと思うようになる。前は青い空によって引き起こされた状態が、今は黄色い空によって引き起こされているからである。あなたの経験の現象的な側面は変化しない一方で、機能的、表象的な内的状態は地球にいたころのあなたのそれから逆転する。これは結局、現象的特徴は機能的特徴に基づいていないことを示唆する。
58.以上のようなことか形而上学的に可能なら、機能主義者にだけではなく、機能主義を否定する物理主義者にも、この問題は困難となるだろう。ミクロ物理学的なゾンビが思考可能なら、現象的に逆転した私たちのミクロ物理学的な複製もまた想定可能だろう。
1-9 The Problem of Transparency(透明性の問題)
59.青くて四角い対象に注意を向けてみる。直観的に、それらの特徴は世界の側にある外的なものとして、われわれはそれらを意識する。では経験の、その経験たらしめているものそれ自体に注意を向けることはできるだろうか。これはできないように思われる。青さや四角さは外的対象に例化されていて、主体の気づき意識は経験それ自体の上をすべるように思われるのだ。経験それ自体を見てみようと主体の心の内側へと注意を向けてみても、結局心の外の世界に注意を向けることになる。これは実際に青くて四角い対象がない場合、つまり幻覚や錯覚の場合も同様である。内観は幻覚が見えている際に経験するもの以上のどんな特徴も明らかにしないように思える。
60.視覚経験は、現象的意識が概してそうであるように、透明であるかもしくは透明に見える。痛みの例を考えよう。足に痛みを感じているとき、あなた結局何に注意を向けているのか?私は私の足に関連する部分に位置する異常を経験している。が、私は私が経験しているもの以上の私の経験のいかなる特徴に対する気付きも作り出すことができない。私の経験それ自体は私の足にはない。これは幻肢の例からもわかることだ。幻肢の場合でも正しい電気的刺激が脳に与えられれば、その足の痛みを経験することができる。が、そのとき私が注意を向けているのは、私の足に何が起きているのか、私の足がどうなっているのかだ。これをどう説明するのか?
1-10 The Problem of Felt Location and Phenomenal Vocabulary(感覚の位置と現象的語彙の問題)
61.あなたは手に痛みを感じている。あなたはそこに何かしらの痛みがある経験をするが、実際にはあなたの手には痛みはない。痛みは適切な神経活動にその存在が左右されるような心的対象である。なので、あなたの経験は誤りもしくは不正確である。つまりあなたの手には痛みがあるが、実際にはない。だが、手に痛みを感じる人は大体錯覚の主体であるというわけではないし、上の事例は非常に反直観的である。
62.この問題に対する一つの回答は、例え手の中に空間的に痛みがなかったとしても、その手の中には典型的に痛みがあるというものだ。”in”というのは、痛みの語りによく使われる言葉だが、他の文脈で意味するのとは違う特別な意味を持つことがある。p. 32の論証が正しくない理由は、第一の前提と結論における”in”の意味が第二の前提のそれと違うからだ。
63.この点は外的な物理的対象に適用される感覚に関連するすべての用語によく一般化される。緑の残像は文字通り緑ではないし、何かが燃えているようなにおいは文字通り燃えている状態ではない。ここでの問題は、これらの用語は経験に適用されると何を意味するのか、そしてその意味は、他のものに適用されるような同じ用語の他の意味とどうつながるのか、というものである。
1-11 The Problem of the Alien Limb(エイリアンリムの問題)
64.この問題はある精神疾患に起因する。オリバー・サックスの『妻を帽子と間違えた男』に書かれている事例だ。あるテストのために入院していたある男は、ナースにベッドの上で放置され、なんとかして床に落ちたのだった。彼によれば彼が目覚めたとき、誰かの切断された足がそこにベッドにあったという。身長にそれに触れてみると、それはしっかりと形があったが、変で、冷たかった。彼はそれを投げたが、どういうわけか彼自身も一緒に飛んでしまった。そして、彼自身も信じがたいことだが、その足は彼についているものだった。
65.サックスは彼が自分の足を体から引き裂こうとしたのだと言う。その男が乱暴に扱っていたものが自分の足だと彼が知らされた時、その男は非常に呆然として「この足、このものが真正の、現実のものに感じられない。これが自分の一部に見えない」と言ったらしい。
66.サックスもある時期感染性の病を患っていた。その時、サックスは自身の足が不気味で異質なものに思えたという。病気が治り、足の感覚を取り戻したとき、彼はその変容についていろいろ言ったらしい。
67.このことから、ここには、どういうわけか感覚の主体への言及(参照?)を含むような、身体経験に関与する感覚の側面があるということがわかる。ここでの主張はその感覚の側面が常に必要であるということではなく、典型的にそうであるということである。よりありふれた例でいえば、足の痛みの例がある。この場合、ただ痛みがあるというだけでなく、まさにそのあなたの足に痛みがある。サックスやその患者の例では、その異常な足に何らかの身体経験はなかった。
68.ここから浮かび上がる哲学的問いは以下の通り。いかにして感覚の主体であるその人自身が感覚に関与しうるのか?自己と感覚の現象学との関係はどのようなものか?
69.これで10個の問題が出そろった。どれも難しくて、心の哲学者が解決をあきらめる理由もわかるだろう。しかし、この問題はなぜこんなに難しくて、さらなる検討の価値があるのだろうか。これが次の章のトピックである。
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